高校・大学時代に定めた道を進みつづけている方、若いときには思ってもいなかった方面に進むことになった方、、天王寺高校卒業生のは様々な方面で活躍しておられます。
卒業生の中には、こんな仕事をしている人がいる、ということを知っていただければ幸いです。
大学を出て
工学部の化学系研究室をでてから、10年間化学メーカーの研究室で電子部品用紫外線硬化樹脂、ポリプロピレン変性レトルトパウチ用接着剤、静電トナー用樹脂、水系アクリル樹脂などの研究開発を主にしつつ、印刷インキや塗料などの改良に携わっていました。そんなサラリーマン生活にピリオドを打ち、僧侶としての人生を歩み始めてもう20年にもなってしまい、出家当時長女がまだ生後6ヵ月だったのがもう成人式を迎える年齢になりました。まだまだ修行が足りず、俄坊主で失敗ばかりしています。
高野山での修行
何故この道に入ったかは別の機会があればそれに譲るとして、元々在家の私が全くの別世界に飛び込んだのですからかなりしんどい思いをしました。そのことを少しだけお話ししようかと思います。
高野山真言宗の僧侶となるには、とりあえず形だけ坊さんとなるために100日の高野山中での寒中修行が必須です。昔は行に出る前、水杯で家族との別れをするくらいの死を覚悟の行だったといわれています。それを物語るように修行道場の境内には、行中に亡くなった修行者のお墓が数多く建立されています。現在は、修行中に死亡することは社会的にも許されません。ですから、修行を申請する本山宛の書類には、公立病院での健康診断書を添付しなければなりません。当然、修行に耐えられる健康体でないと許可されません。昔の行は、死ぬか生きるかの極限状態まで自分を追い込み、その中で何かを感じ取ることができれば、行の目的を達したといえたのでしょう。現在と違い、生死ぎりぎりのところまで追い込んだ修行だったと思います。
高野山での修行には、高野山専修学院といって、真言僧侶としての学問(教学)、読経や声明といったいわゆる日常作法、そして行などを一年間で伝授する教育機関があります。ここに入処する者は、実家が寺で、高野山大学を卒業してから入学するのが大半を占めます。私の場合は専修学院ではなく、事相講伝所といって、行だけを実習する機関で、高野山内から2つ峠を越えたところにある円通律寺にある修行道場でした。ここは、私のように突然坊さんになろうとした者が、とりあえず形だけ坊さんになれる様に行だけを実習させてくれる行場です。教学や作法等は、自分の師僧から学ぶのが前提となっています。
そんな行場ですから、同時に入処した行者の経歴が多岐に亘っていました。私の同僚には、遠洋航海船のコックさん、大学の倫理学の教授(東北大卒、現在高野山大学大学院教授)、元高利貸し、現役葬祭業者などがいました。風呂場で、いつもやさしく親切な行者の背中に観音さんの絵が描いてあるのを見たとき皆が絶句した話は、行者間の語り草となっています。
行中の生活ですが、先ず食事は、精進潔斎ですから菜食となります。朝食はお粥と塩昆布、昼食はご飯と昆布でだしをとった味噌汁(鰹だしは不可)、漬物と決まっています。通常一日二食(にじき)で正午を越えてからは食事をしませんが、一般の夕食に相当するのが薬食(やくじき)と言って、薬だから食してもいいという理屈になっています。この薬が行者には最高の良薬となります。持病の為の薬の服用も許されますが、般若湯というものは当然禁止です。滋養強壮の為の養命酒がダメなのは当たり前です。勿論禁煙であることは言うまでもありません。
行者が4~5人で一組になって、皆の食事を作りますが、腕の見せ所が薬食です。精進でありさえすれば、おかずに工夫できるわけで、腕のいい当番なら豆腐のステーキ、ハンバーグ等多彩なメニューが薬となります。元コックさんが当番の時は最高でした。要領の悪い組が当番のときは、カレーに決まっています。このカレーも当然精進ですから、肉の変わりにアブラゲかこんにゃくが入ります。時々肉の塊があったと一瞬喜ぶと、カレー粉の塊であってがっかりしたりします。食に対しての執着が出てしまうとつくづく感じました。
京都のお寺では精進料理をいただける処が多くありますが、これは修行僧の食に対する執着を暗に表すものだと判りました。例えば、山芋を擦って海苔の上に載せて焼いて鰻の蒲焼に似せて作ることなんか、食べたくて食べたくて仕方ないので、せめて形だけでも鰻の蒲焼にしたそんな修行僧の執着の現われだと思います。皆さんは、勝手に高級料理として食べている精進料理も、元を糺せば修行僧の執着がその起源ではないか思ったりしています。仏教の教えは、執着を無くすことですが、所謂精進料理としての体裁を整えたものは、修行段階の雲水の捨てきれぬ執着を表すものとして理解していただいたほうが納得できる気がします。精進料理に対するのは、生臭料理といいます。生臭坊主とはよく言ったものだと感心します。
毎日カロリーの低いものばかり食べて、行や作務をするわけですから常に空腹ですし、寒さが身にこたえます。一日中氷点下の中に居るわけですが、-15℃位になるとあまり寒さを感じません、かえって1~4℃位がこたえます。こんな時は、うどんが一番です。薬食にうどんの時もあったりしますが、当然昆布だしです。時々差し入れでカップうどんが届きますが、全て没収です。鰹だしに薬味の葱が禁止された野菜だからです。人の口は嘘をついたりするので不浄とされ、五辛(葱、にんにく等の口臭の元になる野菜)は行中食べてはいけません。実際は、行中に余計な精力のつく野菜を禁じたのかも知れませんが。
とにかく、食べることに対する思いは大変でしたから、アンパンの差し入れがあったら、全部食べずに、空腹が満たされなくても、皆が半分残して翌日の楽しみに取っておきます。普段でしたらアンパンなんか見向きもしなかった自分だったのに、食べ物を大切に最後まで残さずいただけるようになったのは、行の功徳だと思います。
行を無事終える(成満:じょうまん)すると伝法灌頂(でんぽうかんじょう)という儀式を済ませば晴れて阿闍梨となります。私の場合は、行を終えてから高野山大学大学院で密教学を勉強しましたが、卒業するのに苦労して3年かかってしまいました。理科系から文科系の学問は何とかなると考えたのが甘かった。今までの思考回路を変換するのに1年かかってしまいました。それから2年かけてやっと修士論文を書き上げることができました。めでたく阿闍梨様となり、行をするより辛い思いをした大学院も卒業して日常作法等を実習するために香住に戻ったのが平成3年でした。
大乗寺と円山応挙
とりあえず、一通りの修行を終え僧侶となった私が居る大乗寺は、別名応挙寺と呼ばれ、円山応挙とその直弟子12名が165面の障壁画(国重文)を残しています。円山応挙とその一門が描いた障壁画のある大乗寺客殿は、応挙の絵画の到達点と言われています。
遠近法を使って2次元の平面中に3次元の空間を描くのではなく、実空間に3次元の立体を如何に描くか。応挙は、複数の立体的に配置された襖でマルチスクリーンを構成し、それによって作られた部屋という空間に、3次元立体像を鑑賞者の心の中に象徴することでその対象を描いています。たとえば、孔雀を描いた部屋では、孔雀の絵を見ることで、孔雀を台座とする仏である阿弥陀如来を連想させ、鑑賞者の心に阿弥陀如来の立体像を想起させるようになっています。阿弥陀如来の詳細な姿を知らなくても、阿弥陀如来の名を思うことで鑑賞者は、阿弥陀如来像が孔雀の間に立っているように感じるわけです。「パンダ」と聞いて「パンダ」の姿が思い起こせるでしょうが、いざ描いてみてくれといわれたとき、どの部分が黒で、どの部分が白かは判らないと思います。しかし、「パンダ」と聞いただけで「パンダ」の立体像が理解できているわけです。言葉や文字を使わなくても、共通の体験を通して、言葉や文字といった理屈を超えて人々が互いに理解できることの具体的な例だと思います。この手法で、障壁画で囲まれた13部屋からなる客殿全体に、三次元の仏像群を象徴して立体曼荼羅を創りだし、密教宇宙観を形で表現しています。密教の特徴としてよく言われる象徴主義の具体例といえるでしょう。
障壁画と風景
障壁画で知っていただきたいことは、襖で作られた部屋(空間)が、雨戸を開け放った時、外の景色と一体化することです。建物の中の空間が周りの景色を取り込み、又取り込まれるようになっていることです。これは、自然と共生する日本人の特質が建物にも表れたものだと思います。日本人が、決して自然と対峙するような民族ではないということでしょうか。
雨戸は単に雨露を防ぐだけのものであって、建物外部と室内を分離する隔壁ではないということです。となると、日本住居の縁側は、外と中をつなぐための重要な緩衝地帯となるようです。額縁で区切られたスペースの中で描くのではなく、建物と一体となって描く発想がもともと日本絵画にはあったようです。縁側の無い洋風の家が多くなっている昨今、絵画も額縁に入れて飾るのが似合うようになり、日本画ですら額縁に入れて、油絵タッチのものが多くなっているのは残念なことです。
自然と一体化した絵画空間が大乗寺客殿といえます。障壁画を鑑賞する時、障壁画に向かって感じるだけでは本当の鑑賞ではなく、障壁画を背にして外の風景を眺めていても、背中の絵画も外の景色と一体として感じることができ、自分が絵画空間と実空間が融合した新たな空間の中に居るようになるのが本来の感じ方と言えるでしょう。
デジタル化とレプリカ
現在大乗寺では、障壁画群をデジタルアーカイブ化し、そのデータでいわゆるレプリカを製作する事業に取り組んでいます。目指すところは、襖絵を見るのではなく、襖絵を背にしてその気配を感じることが出来るものを製作することです。それ故、大乗寺では、従来の「レプリカ」と同一視されないように、「デジタル再製画」と名づけて区別化を図りました。
通常のレプリカの製作では、現状か復元か、模写か印刷かの選択から始まります。大乗寺の場合は、現状を印刷で再現する方を選択しています。デジタル再製画の製作は、先ず作品をアーカイブ化します。ここでは、襖絵をアナログのカメラ(フィルムサイズ:8インチ×10インチ)で撮影したものを、スキャナーでデジタルデータ化(1000dpi:通常の印刷では、400dpi)します。そのデータをコンピュータ上で処理していくわけで、具体的にはPHOTSHOPを使っての製版、調色、印刷となるわけです。
昔操った杵柄
ここで問題は、金箔貼りの和紙が被印刷体ということです。従来のレプリカの場合オフセット印刷で洋紙に金インキで金箔の調子を印刷していましたが、金インキは、金属粉を使っているため、金箔の金属鏡面の再現ができないという限界がありました。また洋紙では、和紙の持つ風合いが再現できないという問題もあります。そのためどうしても、金箔貼りの和紙に印刷する必要があったわけです。ところが、従来の金箔貼り和紙は、金箔と和紙の接着強度が弱く、オフセット印刷時に金箔がインキ側に取られてしまうことです。もう一点は、浸し水により和紙の寸法が変わってしまうことです。
オフセット印刷は平版印刷ですから、油性のインキを付着させる親油性の画線部と、水を保つ親水性の非画線部が同一平面上にあります。印刷の前に水(浸し水)で版面を湿らせ、次に油性のインキをつけると、水と油の反発作用で画線部にのみにインキが付いて印刷できる仕組みです。それ故、通常の和紙には適さない印刷方法といえます。
そこで、エポキシアクリレート系の紫外線硬化樹脂を接着剤として用い、水に対する寸法安定性を改善した和紙に金箔を張り合わせることで、オフセット印刷可能な被印刷物が開発されました。まさか今になって坊主である私が、エポキシアクリレートなどと向かい合うとは思っても見ませんでした。おまけに、出来上がった印刷物の耐候性等についての印刷関連の意見や、インキのことまで口出しまでしてしまう変な坊主になってしまいました。過去の経験をそのまま使えてしまう不思議さいうか、化学の世界の中に未だに居る自分の姿に気づいたり、仏教用語よりも、化学用語の響きのほうが快い時があったりする自分にあきれたりしています。
20年以上前の経験がいまだに役立つということは、印刷関連の接着剤、顔料の技術の基本はさほど進歩していないのかとも思ったりします。コンピュータを使ったデジタル化、製版等は格段の進歩が窺えます。デジタルカメラ(スキャナー)を使ったデータ化がもう一歩というところまで来ているようですが、現在のところ、レプリカ製作過程で、入口の写真撮影(アナログ)と出口の印刷(色再現)だけは、まだ人間の目が関与するアナログが絶対的であるようです。